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轟泉水道を歩く

2018年9月18日更新
【キュレーター】小堀 俊夫 宇城エリア

先日、宇土歴史懇話会のフィールドワーク「轟泉水道を歩く」に参加しました。
江戸時代初期、宇土細川支藩成立当時に設置された「轟泉水道」は、上水道として武士および町衆の生活を支えるとともに、農業用水として田畑に水を供給し、宇土の歴史・文化を育んできました。正保3年(1646)宇土支藩初代藩主となった細川行孝は、宇土の城下町の整備を進めていきましたが、この土地は地下水に恵まれず、水質も飲料水には適さなかったため、行孝は古くから名水として知られた轟水源から自然流水による水道を引くことを計画しました。水源から宇土御屋敷に至る28町50間(約3150m)に円筒形の瓦質管を敷設して、飲料水及農業用水を確保しようというものです。その建設費用を捻出する為、行孝の祖父細川三斎の遺物である唐物茶入「利休尻ふくら」、「俊成卿定家卿両筆懐紙」などを細川本家に献上し、3000両を分割拝領しています。水道の敷設工事は寛文3年(1663)8月頃着工し、翌寛文4年(1664)暮までに全の工事が完了し、宇土の町は轟泉水道により潤されるようになりました。
 設置から100年ほどが経過し、5代藩主細川興文(おきのり)の代になる頃には、轟泉水道は経年劣化や地震による樋管の破損等のため、水の汚濁や枯渇などが目立ってきて、改修が必要な状況となりました。当時、藩財政は極めて窮乏していましたが、興文は富講などにより資金を確保。耐久性を高めるとともに以降のメンテナンスが容易になるよう瓦質管から馬門石(まかどいし)の石管に切り替える大工事を行いました。その後も轟泉水道は大切に守り伝えられ、今もなお100戸以上の家庭に上水を供給し続けており、現役として使用されているものとしては日本最古の上水道です。
これまでは、水源と船場橋際の最終井戸、すなわち轟泉水道の頭としっぽには行ったことがありましたが、今回、初めて轟泉水道の樋管をたどって歩きました。水源から最終井戸までの高低差はわずか4mほど。3000m以上の距離を自然流水により水を送ることを可能にした先人の精緻な計算と技術の高さに改めて感銘を受けました。