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荒尾市野原八幡宮 野原八幡宮風流さん

毎年10月15日に行われる野原八幡宮(のばらはちまんぐう)の祭礼に奉納されている「野原八幡宮風流(ふうりゅう)」。荒尾市の菰屋(こもや)、野原(のばら)、川登(かわのぼり)の3地区で、770年以上、口伝口授のみで継承されてきた伝統芸能です。

Vol.22

口伝口授で継承されてきた伝統芸能

荒尾市野原八幡宮 野原八幡宮風流のお話

【風流とは】

正式名称は、「野原八幡宮風流(ふうりゅう)」。毎年10月15日に行われる野原八幡宮(のばらはちまんぐう)の祭礼に奉納されているもので、熊本県荒尾市の菰屋(こもや)、野原(のばら)、川登(かわのぼり)の3地区に770年以上伝わる芸能です。「打手(うちて)」と呼ばれる「笠(かさ)」をつけた2人の男児が、「笛吹」の成人男性の奏でる歌や笛に合わせて大太鼓と小太鼓を打ち、優雅に舞う姿を見せてくれます。

「野原八幡宮風流」(以下「風流」)は、国選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)の選択を受けており、併せて熊本県重要無形民俗文化財の指定を受けています。10月15日の本番を迎えるまで、3地区それぞれで祭りの稽古と練習を行います。その準備の中心となるのは、「ならし」と呼ばれる「風流」を舞う大太鼓・小太鼓の練習と、大太鼓・小太鼓役が頭に載せる「笠」をつくる「笠切り」です。ちなみに「風流」を舞う子どもは、数え年で7〜10歳の男児から選び、選ばれると6年間続けて務めるきまりになっています。10月9日〜12日までの4夜(これも地区によって異なります)、かつてこの役を経験した大太鼓師匠・小太鼓師匠の指導のもと、練習が行われます。原則的にこのわずかな時間しか練習は行われないため、役に選ばれてから日が浅い男児は、完璧に舞いを覚えることができません。よって最初の1年〜2年は、年が近い「若師匠」たちによる介添えを受けながら奉納が行われるそうです。そして12日か13日に丸1日かけて「笠切り」をし、今年の新しい「笠」を2つ仕上げます。ちなみに祭りの参加者は、平日であれば学校も会社も休んで参加(しかも学校は欠席扱いにならないそう!)。10月9日の夜から15日の朝、本番を迎えるまで。3地区にとっては1年で最も特別な1週間といってよさそうです。

【写真(左)】
地元では「のばらさん」の愛称で親しまれる「野原八幡宮」。かつて荒尾郷と呼ばれた地域の総氏神さまです。
【写真(右)】
「風流」を舞う子どもは、数え年で7〜10歳の男児から選ばれます。
選ばれると6年間続けて務めるきまりになっています。
【写真(左)】
かつてこの役を経験した人は「師匠」のポジションへ。ほかにも「笛吹」の皆さんが音色を奏でます。
【写真(右)】
限られた時間しか稽古できないため、選ばれて日が浅い子どもたちは完璧に舞を覚えることができません。
そのため、「若師匠」と呼ばれる年の近い子どもが近くでサポートします。

地区の師匠から稚児たちへ
口伝口授でのみ残されてきた芸能

特に長かった今年の夏、その終わりをやっと感じ始めた秋の夜。準備2日目にあたる10月10日に、3地区の練習風景をのぞいてきました。まず訪れたのは川登地区の公民館。出迎えてくれたのは保存会事務局の川上直之さんです。川上さんもかつて、この地区の大太鼓を経験した「師匠」のひとり。「伴奏の譜面から舞い方、笠のつくり方まで、すべて口伝で伝承されてきました。文献もほとんど残っていないため、3地区それぞれで異なります。それも『風流』の特徴かもしれませんね」と教えてくれました。今年の川登地区は、初めて選ばれた2人の男児が「打手」を担当。両親が見守るなか、小さな体に太鼓をぎゅっと巻きつけ、メロディーに合わせて打ち込みをするさまは、確かにまだ不安げでおぼつかない様子。それを「若師匠」が後ろから抱え込むようにして、一挙手一投足、太鼓の打ち方や舞い方を教えていました。その様子を眺めながら師匠の皆さんは、「今はまだまだやけど(笑)、しばらくすると、太鼓の音もパンッと弾けるようになるけん」と目を細めます。皆さんもかつては、小さな体で太鼓を鳴らした少年たち。とうの昔に「打手」を卒業してからも、その後何十年も祭りに関わり続けている方々です。歌詞の意味や太鼓のリズム。本当の意味で「風流」を習得できるのは、役目を終えたあとかもしれないと思ったのでした。

川登地区の練習風景。撥の持ち方からリズムのとり方まで丁寧に教えていきます。
【写真(左)】
野原地区は、野原八幡宮内にある野原公民館が練習場に。稽古は4日間続きます。
【写真(右)】
神棚に蝋を灯し、すでに本番さながらの厳かな雰囲気で稽古を行なっていた菰屋地区。

出立ちを終えて“のばらさん“へ
区民の無病息災と豊穣を願って

見事な秋晴れに恵まれた10月15日、祭り当日の朝。今回私たちは、菰屋地区の朝に密着させていただきました。「打手」たちはまず、小岱山のふもとにある「菜切川(なきりがわ)」でお清めを行い準備します(この儀式は女人禁制なのです…!)。上が赤、下が黄の正装に身を包んだ「打手」の2人。本番とあって、ちょっぴり緊張した面持ちでした。それぞれのお母さんにメイクをしてもらったあと、今年の「笠」を頭にしっかりと装着。「笠」は和紙でできていると聞いていましたが、手にとると意外にずっしりと重い! これを小さな子どもが長い間頭に載せて舞いを踊るのは、確かに、なかなか大変そうです。師匠の皆さんに尋ねてみると、「この痛みに耐えてこそ一人前!」と豪快な答えが。「打手」は一度選ばれると6年間続けて務めるため、誰しもにチャンスがまわってくるものではない役回り。今年で3年目を迎えた大太鼓の岩尾凱斗くん(小5)に話を聞くと、「一生懸命菰屋の風流を捧げたい」と決意を語ってくれました。ちなみに「笠」には和紙のほかに竹や藁なども使われていて、形は獅子頭に見立てて作られたもの。よく見ると、雄雌の区別もあることに気づきます。
当日の朝、いよいよ出立ちが始まります。出立ちというと、一般的に嫁入りの際に使われる言葉。家族のほかに実家近くの方にも挨拶をする儀式として知られますが、この「風流」では、3地区とも公民館で簡単な食事やお酒をふるまうことを指します。出立ちが終わると、地区の方々が続々と公民館前に集まってきました。打ち込みと称して一舞を終えたあと、「これから400世帯1200人の無病息災と豊穣を祈ってきます」と声高らかに宣言したのは、地区長の高浜紘さんです。近くの神社でもう一度打ち込みを行ったあと、野原八幡宮へ向かうのです。

獅子頭に見立ててつくった「笠」を頭に装着。これも地区によって色紙の種類、切り方、組み立て方が異なります。
【写真(左)】
当日の衣装は限られた人しか触れることができません
【写真(右)】
どちらもお母さんが化粧を施していました。
【写真(左)】
野原八幡宮に向かう前に、地域の方の前で振る舞う打ち込みが行われます
【写真(右)】
「地区の豊穣と無病息災を祈ってきます」と区長の宣言を聞く菰屋地区の方々。

太鼓をうつ舞(まい)こそ風流
託されたのは地域への想い

祭り当日は、「風流」が始まる前にまず「節頭(せっとう)」と呼ばれる行事が行われます。こちらは柄杓をもった仲間頭(ちゅうげんがしら)、節頭と呼ばれる稚児を乗せた神馬を引く4人の仲間が、御供人(おともにん)とともに、「ヘーロイ! ハーロイ!」という掛け声をかけながら、“のばらさん”に奉納するというもの。風流の3地区以外の旧荒尾郷の地区が、交代制で役目を担当しています。その後行われる風流は、必ず、菰屋、野原、川登の順で行われます。本番のために稽古をつんだ「打手」が、笛役の大人たちと行列で境内を進みます。男児たちは太鼓と大太鼓を両手の撥(ばち)でリズミカルに打ちながら、歌や笛の音色に合わせて、ぴょんと片足で跳ねたり、時には入れ替わる所作もみせてくれます。笠におおわれてなかなか表情は見えませんが、2人とも稽古の成果を発揮できている様子…!
さて、荒尾市教育委員会による著書『荒尾の風流』によると、“もともと、風流の語は単に「みやびやかなこと・風雅なこと」を意味するのではなく、趣向を凝らした風情ある作り物、仮装、物真似、あるいはそうしたものを伴う生や拍物(はやしもの)などの芸能をさす語として用いられるようになった”とありました。たしかに、にぎにぎしい祭りの場で行われているものの、雅な笛の音楽と相まって、中世芸能の優雅さの片鱗を感じられるものになっています。菰屋地区の風流を約50年見守り、継承し続けてきたひとりが大倉望さん。「間違いなくムラ一番の行事。地区の皆さんの協力があって毎年開催できています。伝統はなくしてしまうことは簡単ですが、ずっと根付いてきた芸能を絶やすことはできません」と語ります。親から子へ、そして地域へと伝承されてきた「風流」。写真やテキストなど、どんな方法でも「残す」ことが容易になっている今。700年以上も口伝のみで伝えられてきたという伝統の儚さと脆さがこの「風流」の魅力であり、人々を魅了してやまない秘密なのかもしれません。

菰屋地区で大太鼓を担当した岩尾凱斗くん(小5)、小太鼓を担当した前村淳貴くん(小4)
【写真(左)】
大太鼓と小太鼓を打ちながら奉納する優美な舞。時々2人の場所が入れ替わります。
【写真(右・上)】
当日は「ヘーロイ! ハーロイ!」の呼びかけが楽しい「節頭(せっとう)」からスタート。
【写真(右・下)】
奉納が無事に終わったあと、3地区が集合し、一本締めをして終了となります。
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