Vol.4

「喜多流」能楽師 狩野琇鵬さん インタビュー

PROFILE

狩野琇鵬かのうしゅうほう

本名:狩野丹秀(かのうたんしゅう) 1937年、肥後細川藩のお抱え絵師であった狩野家10代目・狩野勇雄の四男として熊本に生まれる。15歳で友枝家に入門、18歳で喜多流宗家に内弟子として修業し、15世喜多宗家の下で喜多流職分・日本能楽協会会員となる。1968年に熊本の能楽普及のために「三ツの木の会」を創設。 フランスのエクス・アン・プロヴァンス市へ寄贈した「狩野丹秀能楽堂」で年に1回公演を行うほか、フランス、アメリカ、ドイツ、カンボジア、ベトナムなどでの海外公演も積極的に行う。1986年に「重要無形文化財保持者(日本能楽会員)」に認定。1995年「熊本県民文化賞」受賞、2001年「熊本県文化懇話会賞」受賞。2008年「国際ソロプチミスト 千嘉代子賞」受賞。2009年に「フランス芸術文化勲章」受章。熊本市在住。 「熊本県能楽協議会」会長。

【熊本の能楽とこよみ】

神社の祭礼に奉納される能楽を「神事能」といいます。例を挙げると、熊本では1月5日に北岡神社・藤崎宮で「松囃子能」、4月6日に健軍神社で「花の薪能」、8月に北岡神社・出水神社で「薪能」、10月20日に出水神社で「能・舞囃子」などが行われています。
藤崎宮秋季例大祭の主要な祭典行事の一つとして、熊本市中央区段山町の御旅所の能舞台で奉納される演能は400年以上続くもので、日本の中で古い歴史と伝統を誇ります。
現在、熊本県内では、出水神社能舞台、段山御旅所(だにやまおたびしょ)能舞台、藤崎宮能舞台、菊池神社松囃子(まつばやし)能舞台、河尻(かわしり)神宮能舞台で定期的に能楽が行われています。

【熊本の能楽の歴史】

「能」とは、室町時代から受け継がれてきた、世界最古の日本を代表する舞台芸術(古典的演劇)です。平家物語、源氏物語、伊勢物語、土地に伝わる伝説などを題材に、シテ方と呼ばれる主役の演者が「面(おもて:能面)」を付けて舞う「舞(まい)」と、「謡(うたい)」、「囃子(はやし)」で展開します。能の様式美と深く関わる「狂言」は、能と能の間に一つの劇として演じられる「本狂言」と、能一曲の中で演じられる「間(あい)狂言」があります。

かつて加藤清正は、金春流(こんぱるりゅう)の中村政長と共に肥後に入り、藤崎宮放生会(ほうじょうえ)、北岡神社祇園会(ぎおんえ)の「御神事(ごじんじ)」としての能楽を興しました。 その後、肥後熊本藩初代藩主・細川忠利と光尚が、新座(金春流・櫻間家)と本座(喜多流・友枝家)を御流儀として抱え、広く浸透させました。
明治に入ると、熊本から上京した金春流・櫻間伴馬、喜多流・友枝三郎が衰微した日本の能楽の再興に力を注ぎ、今日に至る礎を築きました。その後、金春流・櫻間道雄、喜多流・友枝喜久夫、金春流太鼓方(たいこかた)家元・金春惣右衛門、幸流小鼓方(こつづみかた)・幸宣佳などの優秀な能楽師が人間国宝として認定され、その他多くの能楽師を熊本から輩出。今日の日本の能楽の発展に大きく貢献しています。

「面(おもて)は能楽師にとって何より大切なものです。他の荷物は人に預けても、面だけは必ず自分の手で運びます」と狩野琇鵬さん。
【写真(左)】
2012年5月にフランスで「ジャンヌ・ダルク600年祭」を行った時に作った女面で、現代的な「眉」が書かれているのが特徴です。
【写真(右)】
狩野さん曰く、「般若の面は、よく“怖い”と言われますが、私はこの表情が一番好きです。なぜなら、怒りの頂点を越え、昇華した先にあるのは安らかな美しさだからです。何事も中途半端はいけません。徹底することが何より大切で美しいことだと思います」

※狩野琇鵬さん:以下 狩野、くまもと手しごと研究所:以下 事務局

藤崎宮秋季例大祭で奉納される御旅所の能舞台は400年以上続く、
歴史と伝統を誇るもの。
年に一度だけ、この日に熊本で御神事の奉納「五番立」(略式)が演能されます。

事務局:
戦国時代に活躍した武将たちが、武士のたしなみの一つとして学び、愛した「能」には、もともと五穀豊穣や子孫繁栄などを祈願する意味があり、熊本では加藤清正の治世の頃から能の奉納が興ったと聞いています。藤崎宮秋季例大祭の際に、熊本市中央区段山町の御旅所の能舞台で奉納される能は400年以上続くもので、日本の中でも古い歴史と伝統を誇るものだそうですが、当日はどのような能が行われるのでしょうか。
狩野:
間に狂言を挟みながら行う能を「式能(しきのう)」、または「五番立(ごばんだて)」といい、神社での御神事(ごじんじ)の奉納にはその形態が残っています。現在、広島県廿日市の宮島・厳島神社で毎年4月に行われる「桃花祭御神能」で、日本で唯一、喜多流と観世流が五番能を演能し、東京では能楽協会の式能が年に1回行われています。熊本では藤崎宮秋季例大祭だけがその形を残しています(但し、間に狂言を挟まない形で行います)。今年(平成26年は9月21日)も1日かけて、金春流と喜多流によって素謡(すうたい)「翁(おきな)」に始まり、初番目(神を称える能「養老(ようろう)」)、二番目(修羅道に堕ちた武士の能「八島(やしま)」)、三番目(女性が主役となり優美に舞う「井筒(いづつ)」)、そして四番目(狂女物)は今年はなく、「野守(のもり)」の五番目(鬼)を行います。ちなみに能の世界でも「女性」(の舞)が中心なんですよ (笑)。
事務局:
能は敷居が高いものと捉えがちですが、どのような観かたをすると、より楽しめるのでしょうか?
狩野:
能は観ている方と舞台で演じる側が一体化し、一緒に創り上げる世界です。その空間が一体化すると、観ている自分も演者と同じく主人公になります。能のストーリーは単純で、何者かがここに来て、語って、去っていくもの。その世界に思いきって飛び込んで、極端な話ですが、終わった後に心地よく目が覚める…ということでもいいのです(笑)。
よく、能は「敷居が高い」とか「難解だ」などと言われますが、言葉の意味合いを無理に理解する必要はありません。能楽堂に入って、笛の音に聞き入ったり、シテ(主役)のすり足の動きを観たり、衣装の美しさやデザインに注目するなど、興味の対象は何でも構いません。私はよく「能は、魂を遊ばせる世界」と表現します。演者も観る側も平等にそれができる、普遍的な思想の世界なのです。映像を映し出す装置などがなくても、自分の頭の中には紅葉が美しく色づくような光景を感じることができます。
能では現世と来世の区別をしていません。舞台で、一足(いっそく)を運び出すことで、この生の世界から死の世界に一足(いっそく)を踏み入れ、死の世界から一足出ることでまたこの現世へ戻るなど、演じる側としてはその表現が難しいところです。
演者が神となって天下泰平と国土安穏を祈る舞を舞う「翁(おきな)」(平成19年4月/14世喜多六平太記念能楽堂にて)

能は基本的な型を大切にしながら、すべての表現を即興的かつ自由闊達に行うもの。その点は「ジャズ」の世界にも通じます。

事務局:
能を観る時、私たちは型にはまった観かたではなく、その中に飛び込んで、自由に感じていいものなのですね。
狩野:
能の中には次のような「能楽十五徳」という徳があるといわれます。
1. 不行知名所    行かずして名所を知る
2. 不思登座上    思わずして座上に登る
3. 不馴近武芸    馴れずして武芸に近づく
4. 在旅得知音    旅に在りて知音を得る
5. 不軍識戦場    軍せずして戦場を知る
6. 不習識歌道    習わずして歌道を識る
7. 不望交高位    望まずして高位と交る
8. 不詠望花月    詠めずして花月を望む
9. 不老知古事    老いずして古事を知る
10. 無友慰閑居    友なくして閑居を慰む
11. 不触知仏道    触れずして仏道を知る
12. 不恋思美人    恋せずして美人を思う
13. 不祈得神徳    祈らずして神徳を得る
14. 無薬散鬱気    薬なくして鬱気を散ず
15. 不厳嗜形美    厳ならずして形美を嗜む

「行かずして名所を知る」とありますが、たとえ身体が動かなくなっても、能を観たり、謡(うた)ったりすればどこへでも行くことができます。能は基本的な型を大切にしながら、すべての表現を即興的かつ自由闊達に行います。その点はいわゆる「ジャズ」の世界ですね。
事務局:
観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の能楽論「風姿花伝(ふうしかでん)」や、千利休が詠んだ歌などに「守破離(しゅはり)」という言葉が登場します。そこには「道」を極めるための段階を3つに分け、師の教えを守り身につけ、発展的に離れ、独自の個性を創造し得る…という段階を説いています。なぜ基本が重要なのでしょうか。
狩野:
私たち能楽師は、まず20年ほどの間、徹底的に基本を繰り返し学びます。その段階で基本的な型を常に忘れないでおくことが大切なのです。
「氷山の一角」という言葉がありますが、水面に氷山の一角がなぜあれほど素晴らしくそびえているかというと、水面下に隠れた見えない土台が表に見えている一角を広くしっかりと支えているからです。
禅の修行において課題として与えられる「公案(こうあん)」を、世阿弥は能において「応用・工夫」などの意味として使っています。40代・50代になって自分の世界を確立した後に、私たちは人に見える1割ほどを「公案」して表に出していきます。あらゆることを研究し、土台を作るなど元々の基本がしっかりしていないと、公案はできません。「伝統芸能は型にはまって、そこから出られないのではないか」などと言われることがありますが、もしそうであれば、型を博物館などに飾っておけばいいと思います。私たちは今この瞬間を提供するために公案を行います。学びは終生であり、常に公案を考えています。私の身体が思うように動かなくなり、もし、舞台に出て1時間じっと座っていたとしても自分の公案を表現でき、1分舞うだけで「能楽十五徳」の通り、世界が無限に広がるものです。
また、「風姿花伝」の中に「秘すれば花なり」という一節があります。それは、“秘することそのものが、最大の花を生む秘伝である”という意味です。「今日の“羽衣”はこのように表現を変えてみました」と伝えることはありませんが、観る方には感じていただくことができる。それが能の世界です。
三保の松原で失くした羽衣を返してもらうために舞う天女の物語「羽衣(はごろも)」(平成19年4月/東京自主公演)
事務局:
平成26年9月14日(日)に熊本県立劇場で行われる「能楽講座」では、「能面を語る」というテーマで、講師のお一人として登壇される予定ですね。
狩野:
9月19日(金)・20日(土)の2日間にわたり、第56回熊本県芸術文化祭オープニングステージとして、熊本県立劇場で「熊本能三昧(のうざんまい)」が行われます。「能楽講座」はその関連事業として行われるものです。19日(金)の「ホワイエ・サロン薪能」では解説を交えながら、能・狂言をわかりやすくご紹介します。また20日(土)の「熊本能三昧」では、略式ではありますが、「五番立」形式で、熊本出身の若手能楽師を中心に流派を超えて上演します。能の留(と)めは、酒好きの「酒呑童子(しゅてんどうじ)」と呼ばれる鬼と、それを退治するために山伏(やまぶし)になって近づく源頼光が登場する「大江山」です。ぜひこの機会に多くの方に能に親しみ、楽しんでいただきたいと思います。
(※「熊本能三昧」「ホワイエ・サロン薪能」についての詳細は熊本県立劇場のホームページをご覧ください)
http://www.kengeki.or.jp/audienceperform/2014_nouzamai
事務局:
「熊本の能楽に新風を」をモットーに、熊本の能楽者普及のための活動や、海外公演なども積極的に行っていらっしゃいますが、海外での観客の反応はいかがですか。
狩野:
フランス、ドイツ、フィンランド、スウェーデン、カンボジア、ベトナムなど様々な国で公演を行いましたが、各々の公演での反応で「国民性」の違いを感じます。特に記憶に残っているのが、2009年にベトナムのフエ王朝の宮殿の前で能舞台を行った時のことです。500名ほどの収容予定が、実際には1900名ほどの観客が訪れ、小さな子供たちが2時間の公演中、騒ぎもせずにじっと観ていた様子が感動的でした。
熊本でも、一般の方や子供たちを対象にした体験教室などを行っていますが、多くの方に能の世界に浸り、謡で声を出し、魂を遊ばせ、自らを自由に解放させる時間を味わっていただきたいと思います。私も能の魅力を伝えるために、観る方との交流や、「能の世界」を語る役割などを積極的に行っていきたいと考えています。
事務局:
能を次世代へつなげていくことには、どのような意味があるのでしょうか。
狩野:
能の根底には「全てを受け入れることを善(よ)しとする精神」があります。日本の伝統芸能や文化は「心」を豊かに表現するもので、能そのものの中に和の心があります。豊かな表現の手段と、争うことなく全てを受け入れる「和」の文化から人々が多くの大切なことを学び、未来を担う子供たちが多くの大切なことを感じ、得てくれるものと確信しています。
【写真(左)】
源氏物語の夕顔が主人公として登場する「半蔀(はじとみ)」(平成23年9月/14世喜多六平太記念能楽堂にて)
【写真(右)】
かつて勇名を馳せた平家方の武将・悪七兵衛景清と、生き別れた一人娘の再会の物語「景清(かげきよ)」(平成24年10月/14世喜多六平太記念能楽堂にて)