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#043

熊本の城下町をぶらり歩けば、町並みに刻まれた書家の筆跡

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03/03

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道端にひっそりと咲いている花、お饅頭をふかす蒸気の香り、オープンしたばかりのお店、どこからか聞こえてくるたどたどしいピアノの音。ふだんはなにげなく通っている“いつもの”道も、ゆっくりとあたりを気にしながら歩いてみれば、いろんな発見があるはず。その発見のすべては町をつくりだしている要素であり、中には町にしっかりと刻まれた歴史を知る手立てになるものもあります。そのひとつが、看板などに見られる“書”ではないでしょうか。今回のコラムでは、熊本市在住の書家・稲田春逕さんといっしょに、“書”を通じた城下町発見の旅にご案内します。

町に刻まれている歴史というものは、刻一刻と積み重ねられたものであり、当然のことですが時代とともに少しずつ変容しているもの。その中にも、長い時を経てその町並みになじみ、町の顔となり、歴史を伝承する語り部のような風格を漂わせる存在があります。古い建物や看板がそのひとつと言えます。現在ではマンションや近代的な建物が増えてきたものの、城下町を歩いていると町の歴史を垣間見ることができるような建物や看板が、ところどころに見られます。特に看板や扁額(へんがく)などの手書きの書には、歴史とともにそれを書いた人の息づかいや、その背景までにも思いを馳せることができるようなものが多くあります。

熊本市中央区新町にある吉田松花堂(よしだしょうかどう)の看板。それぞれの看板に長い間この地で伝統薬である「諸毒消丸(しょどくけしがん)」をつくってきた風格が漂う。新町という町に欠かすことができない風景だ。
同じく新町にある長崎次郎書店。1800年代のはじめに藩主・細川家の指物師として熊本に入り、「静観堂(せいかんどう)」の屋号で道具屋を営んだことがはじまり。明治に入って書店を開業する以前の看板が残っている。

町並みの一部となっている看板は、古いものは明治期に書かれたものがあり、中にはその書が著名な書家の作品であることも。そのことからも、明治期の熊本には全国から文筆家や書家などの文化人が集い、文化的な交流が盛んであったことがうかがえます。

新町を歩いていて見つけた森本茶舗の店先の書。

城下町に残る書家の作品

明治時代の書道界に大きく影響を与えたといわれているのが、中国(当時の清国)の楊守敬(ようしゅけい)の明治13年の来日です。楊守敬は、金石学者(碑文研究の一種)であり、彼が約1万点の拓本や法帖(ほうじょう)を携えて日本にやってきたことで、日本の書家たちがこぞって楊守敬のもとを訪れたといいます。後に明治の三筆と呼ばれた、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)、中林梧竹(なかばやしごちく)、そして巌谷一六(いわやいちろく)も、この楊守敬から影響を受けた書家で、在日中は楊氏のもとを毎日のように訪れ、中国の古典書から原点をたどって学ぶことで、大いに刺激を受けたようです。明治時代に金文体や篆書、隷書を文人たちが学んだことには、楊守敬の来日が影響しています。


この明治の三筆のうち、中林梧竹と巌谷一六は、熊本にも度々訪れていたようです。その作品は、城下町の各所に残されています。今でもその作品を見ることができるのが、熊本中央郵便局の近くにある文房具店「文林堂」です。

文林堂の電車通り沿いの看板には、「一六居士」と落款がある。今日では珍しいとされる「陽刻(ようこく)」(文字部分が立体的に出ている)で彫られている。
文林堂の店内。画材、書道用品など文房具を幅広く取りそろえる。お店の2階では、絵画教室なども行っている。

文林堂は、洋画材、日本画材、水墨画材、書道用品など、文房具を幅広く揃える明治10年に創業の140年以上の歴史を持つ文具店です。店内に入ると顔料や絵の具の圧巻の品揃え。物色していると思わず時間を忘れてしまいそうになるくらい、文房具好きにはたまらない空間です。その店内のレジ部分にある「筆硯紙墨(ひっけんしぼく)」の書。よくよく見てみると、この書にも「一六翁」の落款があります。看板の書に続き、店内の巌谷一六の肉筆の書は、前述にある中国の楊守敬の来日から影響を強く受けたことがうかがえる隷書体です。

レジの上に飾ってある巌谷一六の書。「文房四宝」である筆と硯、紙、墨の文字。明治30年以降に書かれたものだとか。

明治天皇の書の先生をつとめていたという巌谷一六ですが、御用で熊本には訪れていたといいます。文林堂の四代目丹邉(にべ)さんに聞いてみると、電車通り沿いの看板の元になっている一六の肉筆がそのまま保管されているそうで、今回は特別にその現物を見せていただきました。

保管されている巌谷一六の肉筆の書は、大きさ違いで2種類。どちらも今書いたばかりの作品のように美しく、躍動感があふれている。※ふだんは非公開の作品

「巌谷一六先生が熊本にいらっしゃると、わたしの祖父が朝から墨をすって、先生のもとに運んでいた、という話です」と、丹邉さんは当時のエピソードを聞かせてくれました。丹邉さんのお祖父様がすった墨で書かれた、明治三筆の巌谷一六の書。力強く、凜として、筆遣いだけでなく、息づかいまでもわかるようなその筆致からは、当時の人と人との豊かな交流のあり方までも感じられるようです。墨が紙に食い込んでいる部分、また墨の盛り上がりが確認でき、筆の運びが想像できる、躍動感のある書です。かなり濃くすられた墨を、たっぷりと筆に含んで書かれたことがわかります。

止め、はね、力の入り方など、その筆の動きが、紙の上にのった墨からイメージできる。この書が書かれたのは、明治己亥(明治35年)のこと。

巌谷一六がこの書を書いたとされる明治35年は、明治天皇が陸軍大演習のために熊本を行幸された年なので、巌谷一六がこの年に熊本に来ていたことと関係があったのかもしれません。

文林堂には、巌谷一六の書だけではなく、明治三筆のひとり、中林梧竹の「文林堂」と書いた書も以前は残っていたといいます。先ほどの電車通り沿いの入り口とはまた別の入り口に、以前あった梧竹の書からつくった看板が見られます。

熊本ゆかりの書家作品

熊本市中央区にある五福小学校には、地域の方から寄贈された書などが数多く保管されています。「五福校」の扁額は、明治に熊本県知事を務めた富岡敬明のもの。

富岡敬明の書(五福小学校)

岡山県出身の井上桂園は、昭和初期に熊本師範学校と熊本女子師範学校の教諭を務めていた時期があり、彼の書もまた五福小学校にあります。これは五福小学校60周年記念(明治5年設立なので、昭和7年頃)に寄せられた書のようです。

【写真(左)】
井上桂園の書(五福小学校)
【写真(右)】
こちら側には、斎藤鶴跡の書。城彩苑入り口の「西南の役回顧の碑」は、斎藤氏の書。ちなみに、この書は稲田さんの小学校入学の際に講堂に掲示されていたとのこと。

このように城下町の旧家や老舗、お寺さんには、郷土の風流人や、交流のある文化人の書が多く残されていると考えられます。この文化的な交流こそが、まちの魅力をつくりだしているのでしょう。城下町でまちづくりに取り組む「一新まちづくりの会」の毛利さんは、とある古書店で見つけ出した城下町とゆかりのある書家・阪井鶴庭の作品を、どうにか町の魅力づくりに生かすことができないか、模索しているといいます。その作品を拝見しました。

一新まちづくりの会の毛利さんが、古書店で見つけた阪井鶴庭の双幅の書。見つけて迷わず手に入れたとか。

今回ご紹介したのは、城下町に息づく書の世界の、ほんの一部分です。深く深く掘り下げてみれば、大河ドラマのような壮大な物語が広がっていきそうです。城下町の歩き方としては、ちょっとマニアックかもしれませんが、魅力的な看板を見つけたら、お買い物ついでにお店の人に話を聞いてみるのも、おすすめしたいものです。

【写真(左)】
古町、呉服電停のすぐ前にある和菓子屋「松陽軒」の店内にある立派な扁額。
【写真(右)】
呉服電停の近くにある「秤屋」の看板は、コラム監修の稲田春逕作。

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