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秋分初候   雷乃収声[かみなりこえをおさむ]

暑さ寒さも彼岸まで

2021年9月27日更新
【キュレーター】 浦 ひとみ 熊本エリア

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『暑さ寒さも彼岸まで』という言葉に例えられるように季節の移り変わりを表す言葉であるお彼岸。
お彼岸は日本独自の仏教行事で、ご先祖さまを供養し感謝をささげる精進期間とされています。
お彼岸の始まりは聖徳太子の時代にさかのぼるともいわれており、非常に古くからある風習といえます。
「彼岸」は、
仏教本来の意味では、
私たちが生きている「此岸(しかん)(この世の事)」に対して、「向こう岸(煩悩や迷いから脱した仏さまの世界)」を意味します。
「彼岸」という言葉は、「paramita(波羅蜜多、パーラミター)」という言葉を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」を略したものといわれていわれ、生死に迷う此岸から彼岸である涅槃に到ること、また、そのための菩薩の修行の事をいうようです。
「彼岸」には、「悟りの境地(極楽浄土)を目指す修行」といった意味があり、
仏教において極楽浄土があるとされているのは「西の彼方」で、
太陽が真東からのぼって真西へ沈む春分・秋分の日は「この世と極楽浄土が通じやすい日」と考えられるようになりました。
彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはないことから、民俗学では、元は日本古来の土俗的な太陽信仰や祖霊信仰が起源だろうと推定されています。
日本の民俗学者で、大谷大学名誉教授であった
五来重は、
『彼岸という言葉は、豊作を太陽に祈願する太陽信仰の言葉の「日の願い」が、「日願(ひがん)」として、仏教語の「彼岸」と後から結びついたものである』としています。
『民間習俗と彼岸の名称とその時期とが結合して、仏教行事になり、歳時習俗として生活の中に大きな存在となった』とも指摘しています。
日本で初めて仏教行事としての彼岸会が行われたのは、
延暦25年(806年)、『日本後紀』延暦25年(806年)2月条に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間、「金剛般若波羅蜜多経」を崇道天皇(早良親王)のために転読させた」と記載されています。
そして3月17日に朝廷の太政官から「五畿内七道諸国」の、国分寺の僧に春分・秋分を中心とする7日間に金剛般若波羅蜜経を読ましむ命令が出ていて、これを命じた太政官符では以後恒例とするようになり、これが、後に彼岸会になったと言われています。
日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが今は一般的である。
これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われています。
春や秋のお彼岸の時期に特に食され、その季節の花に例えられていますが、夏や冬に作る場合には別名があるようです。
夏の別名は「夜船(よふね)」です。
おはぎを作るときには臼でつくことはせず、米を潰して作られるため、餅をつく時のようなペッタンペッタンといった音が出ず、
近隣の住人でもおはぎを“ついた”のがいつか分からないことから、夜は暗くて船がいつ“着いた”か分からない「夜船」になぞらえて呼ばれるようになったと言われています。。
また、冬は「北窓」とも呼ばれ、北にある窓からは“月”が見えないことによります。
搗(つ)くことをしないことから、転じて“月知らず”となったようです。

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