清正公さんの“やりすぎ”の守り?!熊本の城下町の防御網

没後400年以上の長い、長い年月を経た今でも熊本人(くまもとじん!)から“清正公さん(せいしょこさん)”と親しみをこめて呼ばれる武将、加藤清正公。熊本城を築城し、近世の熊本の礎を築いた土木・建築の神様とも謳われ、清正公の偉業の数々は、今も私たちの暮らしの中に息づいています。今回は、熊本城と城下町、その周辺の魅力を掘り下げて発信している「私たちの熊本城勉強会」の主宰者であり、くまもと手しごとキュレーターでもある牧野義紀さんに、城下町を歩きながら清正公のまちづくりについてご案内いただきました。

Vol.26

清正公さんの“やりすぎ”の守り?!

熊本の城下町の防御網
↓
[私たちの熊本城勉強会・牧野義紀さん]

[私たちの熊本城勉強会・牧野義紀さん]

熊本城や城下町等に関する勉強会を、1カ月から3カ月毎に開催。5月には清正公のご母堂の命日に合わせ(清正公は母子家庭で育ちました)、縁の深い春日、新町、古町、横手を参拝・散策するイベント。細川忠利公、肥後ご入国の12月には、細川家・加藤家に感謝の機会をと、熊本城の裏鬼門(南西方位)にあたる横手のパワースポット四ヶ寺に参拝等。熊本城のつながりをテーマにしたイベントを精力的に開催されています。2020年の春頃から、インスタグラムでの発信を予定しています。

今回の城下町歩きのテーマは「清正公の鉄壁な守り」。難攻不落の城と讃えられる熊本城は、城下町のまちづくりにおいても、至るところに守りの仕掛けが施されているといいます。熊本城とまちのつながりを調査している牧野さん曰く、その守りは“やりすぎ”といえるくらいのもの。熊本駅から熊本城まで、距離にしてわずか約3kmの間に熊本城を守るための工夫が最低でも十三(最終的には十六でした!)はあるようです。まち歩きの出発地は、熊本駅。さて、どんな加藤清正公の知恵と工夫が仕掛けられているのでしょうか。

熊本城や城下町を守るため、
川の流れを制御する土木の神様、清正公さん!

集合場所の熊本駅から出発。2019年3月に完成した熊本城の石垣、武者返しをイメージする曲線デザインの駅舎を背にして、東方面に進みます。てくてくと歩いてしばらくすると二本の川が見えてきます。熊本駅側を流れる小さな川が坪井川、道をはさんで大きな川が白川です。坪井川の川筋変更に伴い、清正公はここに石塘(いしども)を築いて両川の保護に力を注いだといわれています。石塘築造の目的について「洪水を防止するため、熊本城への水運を向上させるためと、諸説ありますが、この石塘が清正公の“やりすぎ”守りのひとつ目。お城を含めたまちを守るために築造されたと考えられています」と牧野さん。県内には清正公の治水工事が至るところに残っており、そのいくつかは今も現役で治水の機能を発揮しています。

画面の左側が坪井川、石塘をはさんで右側が白川。石塘の下に通水路があったという説があります。洪水対策とも聞きます。
画面の左側が坪井川、石塘をはさんで右側が白川。石塘の下に通水路があったという説があります。洪水対策とも聞きます。
画面の左側が坪井川、石塘をはさんで右側が白川。石塘の下に通水路があったという説があります。洪水対策とも聞きます。

川にまつわる“やりすぎ”守りは、まだまだ続きます。白川の堤防沿いにところどころ見られる、石を積み上げたもの。これは「石刎(いしばね)」と呼ばれるもので、水流の勢いを和らげ、流れを中央に戻し、堤防を守る役割のものだそう。湾曲した川岸にはいくつも石刎が配置されており、清正公時代から造られたと伝わり、古いもの、新しく築かれたものが混在しています。つまり、400年以上前の工法が今でも有効なものだということが分かります。

どの石刎が400年前のものなのか。探してみるのも、楽しみのひとつです。
どの石刎が400年前のものなのか。探してみるのも、楽しみのひとつです。

三つ目の“やりすぎ”守りは「長六橋」と呼ばれる橋。清正公が城下に向かうために白川に架けた唯一の橋で、外からの攻撃を守るため白川が外堀の役割をしていたことがわかります。白川の外側にはさらに加勢川、緑川が防衛線として考えられていたようで、これが四つ目の“やりすぎ”守りです。

画面では見えませんが、長六橋は先に見える橋の、さらに奧にあります。
画面では見えませんが、長六橋は先に見える橋の、さらに奧にあります。

知恵と工夫を集結した古町のまちづくり
そこには、町人の誇りがあふれている

熊本駅から出発してわずか数百メートルの間に、すでに四つの守りの仕掛け。さて、これから清正公がつくった城下町の古町に入ります。この古町は商人の町で、400年前につくられた時からきっちりと碁盤の目状に区画が整備されているのが特徴です。「その理由は、この後に登場する“やりすぎ”守りに関わることなので後ほどご説明しますね」と、牧野さんに焦らされて到着した五つ目の守り。それが、坪井川と旧井芹川の合流点付近に架かる「一駄橋(いちだばし)」です。付近には寺院が多くあり、有事には墓石を川に落として堰を造り、水をせき止め、水害で敵の侵攻を防ぐように考えられていたとされ、そこに位置する橋です。

昔は今以上に川の水量が豊富だったようです。
昔は今以上に川の水量が豊富だったようです。

古町と呼ばれる界隈には、細工町、呉服町、桶屋町、米屋町、魚屋町などと、町名を聞くだけでそこに住んでいた町人の職業がイメージできる古い町名が残されています。“やりすぎ”守りの六つ目は、清正公がつくったこの町名を町の人たちが頑なに守ったこと。……それって、清正公の守りでは、ないですよね? 「そうそう! 昭和40年頃、町名変更を行政から依頼された町の人が、“あ~た、清正公さんより偉かつかい”と断ったと聞きます。清正公がつくった築城当時の町名を守ったことも、“やりすぎ”守りにカウントします」。

この「古大工町」も古町に遺る歴史深い町名。熊本城築城の時に活躍した大工さんが住んでいたに違いありません!
この「古大工町」も古町に遺る歴史深い町名。熊本城築城の時に活躍した大工さんが住んでいたに違いありません!

守りの七つ目、八つ目、そして九つ目は古町の町割りに関連します。まずは、碁盤の目状に区画されている町割りの中心に寺を配置し、そのまわりをぐるりと町屋が囲む一町一寺のまちづくりです。平時はお寺としてのコミュニティの場、有事は防衛拠点となり、区画の中心に広い寺院があることで火災の場合の延焼を防止にもなる全国的にも珍しいまちづくりといわれています。寺院の位置が区画の中心にあることがさらに守りのポイントで、通りからは敵の死角になります。有事の際の会議や宿泊施設、食堂といったさまざまな機能を持っていたのです。先の先を見越したまちづくりを行っていた清正公に頭が下がります。碁盤の目状にしたことで、ものの移動がしやすく、さらに熊本城に物資を運ぶための水運として坪井川が利用されていたことも守りの仕掛けです。

町割りの中心にお寺があると、通りからは見えません。今でもそれが確認できる寺院が数多くあります。古町の心光寺さんは、それが実感できる貴重なお寺です。
町割りの中心にお寺があると、通りからは見えません。今でもそれが確認できる寺院が数多くあります。古町の心光寺さんは、それが実感できる貴重なお寺です。

武士と町人が同居していた町、新町
鉄壁の守りの中に見える、清正公の思慮深さ

古町を後に、新町に入ります。古町と新町の間を流れる坪井川にかかる石造りの橋は「明八橋」。現存する橋は、明治八年に石橋づくりで有名な橋本勘五郎の手によるものです。江戸時代、ここに架かる橋の先には櫓門(やぐらもん)「新三丁目御門」が築かれ、番所と常夜灯が置かれ、厳重に警戒されていました。この門の先が、昔は熊本城内だったわけです。坪井川、堀、土塁が新町を囲んでまるで“新町ランド”。ここが十個目の“やりすぎ”守りです。「いえいえ、新三丁目御門だけでなく、新町にはほかにも4つの御門があったわけです。これが“やりすぎ”守り十一。そして、忘れてはならない坪井川は水運として利用されていたと同時に、熊本城の内堀の役割があります。これで十二! この場所だけで三つの“やりすぎ”があります」と牧野さん。清正公がどれだけ外からの侵入を警戒していたのかうかがえるスポットです。

坪井川は熊本城の内堀の役割も。「明八橋」の先には、お城と同じつくりの櫓門がドーンッと構えていたといわれています。
坪井川は熊本城の内堀の役割も。「明八橋」の先には、お城と同じつくりの櫓門がドーンッと構えていたといわれています。

碁盤の目状の町割りの古町に対して、新町は南北に長い短冊状の町区で構成されています。その短冊状の町割りは規則的なものではなく、まっすぐ伸びている道の先に突き当たりがあり、直進できないようになっています。これが“やりすぎ”守りのその十三。車で通ると分かりますが、この直進できない町割りはとても運転しづらいのです。敢えて通りづらくすることで敵を惑わす策略なのか! いろいろ想像が膨らみます。

まっすぐに伸びた道の先に、マンションが! 新町のあちこちにこのような光景があります。
まっすぐに伸びた道の先に、マンションが! 新町のあちこちにこのような光景があります。

さらに新町は町割りだけでなく、武士と町人(商人)が城内に同居した町であることが特徴。御門の近くに武家屋敷があったのは珍しいとされ、町人が住んでいることで生活の利便性も高かったのでは、といわれています。これが、守りにつながる“やりすぎ”十四。もうすでに、当初に聞いていた十三の数を超えています。武家屋敷と町人が同居していた町の面影はいたるところに感じられ、そのひとつである創業320年余りの玩具問屋の「むろや」さんにちょっと寄り道。駄菓子が陳列されている棚の近くに、江戸時代に掘られたとされる古井戸があり、その前に立てばちょっとしたタイムトリップの気分を味わえます。また、見学はできませんが「牧野さんだから特別に…」と案内された居室には、加藤清正公が祀られている仏壇が! 清正公が手がけた城下町のまちづくりが、どれだけ素晴らしいもので、町の人たちに支持されてきたものなのか、うかがい知ることができました。

新町は武士と町人が同居していた城下町。この地域で汲み上げられる地下水はとても良質だったようで、この地域には数多くのお菓子屋さんがあり「菓子の町」として有名でした。また、明治35年の明治天皇熊本御巡幸時のお茶の献上水は、藤崎台の水が使われました。
新町は武士と町人が同居していた城下町。この地域で汲み上げられる地下水はとても良質だったようで、この地域には数多くのお菓子屋さんがあり「菓子の町」として有名でした。また、明治35年の明治天皇熊本御巡幸時のお茶の献上水は、藤崎台の水が使われました。
新町は武士と町人が同居していた城下町。この地域で汲み上げられる地下水はとても良質だったようで、この地域には数多くのお菓子屋さんがあり「菓子の町」として有名でした。また、明治35年の明治天皇熊本御巡幸時のお茶の献上水は、藤崎台の水が使われました。

城内に街道を敷く大胆な戦略は、
“やりすぎ”の守りに対する清正公の自信?!

新町から熊本城に向かう途中に、清爽園(せいそうえん)という公園があります。ここは「札の辻(ふだのつじ)」といわれ、豊前、豊後、日向、薩摩の四つの街道の起点になっています。城内に街道を通すという大胆な戦略ともいえ、勝手なイメージではありますが、清正公の鉄壁の守りに対する自信のようなものを感じます。その街道にある「法華坂(ほっけざか)」が“やりすぎ”守りの十五。坂が守り! …ということは、かなりの心臓やぶりの坂なのか、、、と思いきや! 「この法華坂には“重箱ばばぁ”と呼ばれるのっぺらぼうの妖怪が出ると伝わっています。その妖怪が通行人を驚かせて、熊本城を守る、という。その伝説こそが“やりすぎ”守りの十五個目です!」との牧野さんの解説。

小さい頃、じいちゃんにこの坂には妖怪が出る、と言われていたことを思い出しました。
小さい頃、じいちゃんにこの坂には妖怪が出る、と言われていたことを思い出しました。

“やりすぎ”の守りをたどる城下町散策のゴールは、熊本城の二の丸公園。その公園の入口直前に牧野さんが、「さて、ここが最後のポイントです!」と立ち止まったのは石垣に囲まれた通り。「最後の最後にこのクランクです。まっすぐにお城に入れない仕掛けです」。熊本駅を出発して、わずか約3kmの距離を清正公の偉業を探しながら歩くこと、約2時間! 普通に歩いてまわれば1時間もかからないコースですが、普段では気づくことができない様々な発見があり、とても充実感のあるまち歩きでした。今回はご紹介できませんでしたが、古町、新町ともに立ち寄りできる素敵なお店をいくつか発見しました。歩いてみるからこそ発見できることがあり、それが熊本城下町の魅力につながり、熊本にしかない財産になる。「私たちの熊本城勉強会」の牧野さんは、熊本城やまちについて調べれば調べるほど探求心に火が付くそうです。今回は“やりすぎ”の守りをテーマに歩きましたが、自分なりに探究したいテーマを設けて歩いてみるのもいいかもしれませんね。

二の丸公園の手前にあるクランク。歩いてみると先が見えないことに気づきます。なるほど、こうやって守りを固めていたんですね。
二の丸公園の手前にあるクランク。歩いてみると先が見えないことに気づきます。なるほど、こうやって守りを固めていたんですね。