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Vol.32井上 泰秋 さん
Vol.31宇土秀一郎 さん
Vol.30島田真平 さん
Vol.29ヤマチクの“持続可能な”竹の箸 さん
Vol.28美里町のぶらり歩き
Vol.27菊池川流域の文化にふれる
Vol.26熊本の城下町の防御網
Vol.25阿蘇市の農耕行事 御前迎えの儀
Vol.24神々の自然と祭事 阿蘇森羅万象と阿蘇神社
Vol.23芦北町田浦の郷土芸能 宮の後臼太鼓踊り
Vol.22荒尾市野原八幡宮 野原八幡宮風流
Vol.21天草市一町田八幡宮虫追い祭り
Vol.20国選択無形民俗文化財
八代市坂本町木々子地区
の七夕綱
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Vol.18尾崎 吉秀 さん
Vol.17村上 健さん 井上昭光 さん
Vol.16盛髙経博さん 盛髙明子 さん
Vol.15古島 隆さん 古島隆一 さん
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Vol.13川嶋富登喜さん 川田 富博 さん
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Vol.5茨木國夫 さん
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Vol.2土山憲幸 さん
Vol.1小山薫堂 さん
平成26(2014)年6月、明治から続いた老舗のある和菓子店が、107年ものの歴史に幕を下ろしました。熊本市の中心地、新市街にあった「四ツ目」。上品な甘さのあんこを、ふんわりとしたカステラ生地で包んで焼いた「四ツ目饅頭」が看板商品でした。その昔は高級なお菓子として、なかなか手が届かない存在だったというこの四ツ目饅頭は、創業からずっと同じ製法、味を守り抜いてきたお菓子。当時、一世紀以上の歴史をもつ老舗閉店のニュースに、惜しむ声が方々から多く聞こえていたことを思い出します。その名店が、看板商品とともに復活したのが、平成29(2017)年の12月。創業111年目の老舗和菓子店の再スタートは、多くの人にとって思い出の味の復活にもなりました。
西橋 銑一にしばしせんいち
後藤 幸代ごとうさちよ
西橋 淸美にしばしきよみ
明治40(1907)年に創業した「四ツ目」。昭和5(1930)年から熊本市の新市街で営業をしていたが、平成26(2014)年6月に惜しまれながらも閉店。あんこをカステラ生地で包んで焼いた「四ツ目饅頭」は創業以来からの看板商品で、多くの人から愛されていた。閉店から3年半後、平成29(2017)年12月に、阿蘇郡西原村で再開した。
「本当はね、ひっそりと再開するつもりだったんです」。そう切り出したのは、「四ツ目」3代目西橋銑一さんのご夫人、淸美さん。ところが、3年半ぶりの四ツ目復活が新聞記事になり、瞬く間に話題が広がり、テレビ番組で紹介され、再開のニュースを耳にした昔から贔屓にしていたお客さんをはじめ、多くの人が連日のように四ツ目饅頭を求めて訪れています。中には、100歳になるおばあちゃんが、「どうしても四ツ目饅頭を食べたい」と、施設の人とともに来店されたこともあったといいます。誰かの人生の中の、ほんのひとときの時間にそこにあった和菓子が、これほどまでに「もう一度食べたい」と心をかきたてる存在になることに感慨を覚えます。製法、味わいを変えずに、ひたむきにものづくりに向きあってきた職人にとって、これほどのご褒美はないと思います。
「四ツ目」の創業者は、西橋新九郎(しんくろう)さん。稀代のアイデアマンとして代々語り継がれ、その逸話が数多く残っています。西橋家の次男坊として生まれた新九郎さんは、10歳の頃から、熊本の古町にあった和菓子屋で奉公していました。奉公明けに独立か、と思いきや、新九郎さんは今で言う“自分探し”の旅にでかけます。その行き先は、アメリカ。途中フィリピンで商売の種になるタイマイの調査に立ち寄り、パナマ運河の建設現場で働いて旅行の費用を捻出し、アメリカまでたどり着いたといいます。地図を広げて見てみると、壮大なスケールの自分探しの旅です。当時は、船で移動していたことを考えると、何が新九郎さんをそこまで突き動かしたのか、興味がわいてきます。
明治39(1906)年に起きたサンフランシスコの大地震に遭遇し、九死に一生を得て帰国した新九郎さんは、これまでの旅で得た発想を、新規事業に取り入れていきました。そのひとつが、商品名の公募でした。「ダン箱と呼ばれるお菓子を入れる箱をひき車に乗せて、もうすぐ和菓子店をオープンさせることを宣伝しながら歩きまわったそうです。話題づくりのためでしょうね、そこで饅頭の名前を公募したのです。賞品、というか採用のお礼が牛肉2キロだったと聞いてます。その当時にしては、斬新なアイデアだったと思います」と淸美さん。創業者の新九郎さんについては、2代目が折りにふれて語ってくれたといいます。
「四ツ目」の看板商品である四ツ目饅頭は、創業当時から形、製法など、ほとんど変わっていません。家紋である「丸に木瓜(もっこう)紋」をかたどり、ほのかな甘みがあるカステラ生地であんこを包み、ふんわりと焼いた四ツ目饅頭は、創業から間もなく人気を博し、20人の職人を抱えるまで繁盛しました。
お馴染みの熊本市の新市街に移店したのは、銀丁百貨店ができた昭和5(1930)年のこと。工場を兼ねた店舗とともに、銀丁百貨店にもテナントで出店。「まわりの和菓子店よりも少し高めの金額だったので、お茶の先生方からも“高級なお菓子”としてなかなか手が届かない代物だったようです」と3代目の銑一さん。戦争を機に一時熊本市の島崎に疎開したものの、再び同じ場所に戻って商売をはじめ、戦後も飛ぶように売れたという同店は、昭和53(1978)年には自社ビルを建てて営業をはじめました。その自社ビルには、映画ファンが集う喫茶店や、パスタ専門店が入り、老若男女多くの人が出入りするビルでした。洋菓子の広まりとともに、一時はケーキを取り扱ったこともあったといいます。「時代とともにお店の形態が変わっても、四ツ目饅頭のつくり方、味の伝承は守ってきました。どんなに注文が多くても、ひとつひとつ手焼き。手仕事でしか出せない四ツ目饅頭のおいしさは、創業から貫き通してきました」。
根強いファンによって支えられてきた「四ツ目」でしたが、販路の縮小が影響し、店を閉めようと決意したのが平成26(2014)年。常連のお客様からは惜しむ声が多かったといいます。「使っていた機械類は処分しましたが、戦後からずっと使っていた焼き型と、お菓子を入れるダン箱、あんこを炊く容器などの一部の道具類は曾祖父の実家の倉庫に預けていました」と淸美さん。まるで、近い将来、再開することを予感していたかのような行動ですが、いざ再開を決めた時に「あそこに道具がある」ということが、西橋さんたちの背中を押したようです。
閉店から3年ほど経ったころ、再開に向けて動き出したのは、4代目である後藤幸代さんでした。「子どもが産まれたことがきっかけでした。自分の子どもに何を食べさせたいか、と考えた時、一番最初に食べる甘いものは、四ツ目饅頭じゃないとだめだ、と思って」と、再開のきっかけを語ってくれました。新市街の店を閉店後、のんびり暮らそうと計画していた両親(3代目夫婦)を説得し、実家の近くに空き店舗を探し、開店にこぎ着けました。倉庫に預けていた道具類を持ち出し、小さな焼き台をオリジナルでつくってもらい、必要最小限の装備で再開。約50年もの間、四ツ目饅頭を焼き続けてきた3代目でも3年のブランクは大きく、納得いく饅頭を焼き上げるまで3、4日かかったといいます。「試作を重ねて、これだ、完成だ、と納得のいく最初の饅頭を、1歳の息子に食べさせました。驚くほどのスピードでパクパクパクと平らげ、おかわりを要求するほど。感動の瞬間を写真におさめようと構えていましたが、その時間も与えてくれないほどでした(笑)」。
閉店から3年半後、平成29(2017)年12月16日に「四ツ目」は再開しました。新聞でお店の再開が紹介されたことで、遠路はるばる訪れる昔の常連客をはじめ、ご近所さんからも四ツ目饅頭の注文が相次ぎました。「懐かしがってくれる方が多く、『昔よりも小さくなったわね〜』なんて会話が店の中で飛び交っています。それが本当にうれしかったですね。ただ、四ツ目饅頭の焼き型は昔と同じなので、形も大きさも変わっていないんですけどね」と、淸美さん。再開から2カ月以上経った今も、懐かしんで訪れる人が後を絶ちません。
四ツ目饅頭独特の、カステラ生地のやわらかさと、絶妙な加減のあんこの甘さ。創業当時から伝わる生地のつくり方、あんこのつくり方、焼き方、それぞれに熟練した技が必要とされます。「幼い頃から父が工場で焼いている姿を見ていましたが、いざ自分が焼き場に立ってみると全くうまくいかないことに愕然としました。生地を焼き型に流し込むことさえできないのです」と、これから四ツ目饅頭づくりを継承していく4代目の幸代さん。生地づくりひとつとっても、その日の天気や、湿度や温度などの条件によってつくり方は変わるといいます。その判断は、職人が長年培ってきた肌感覚によります。お店の歴史とともに、111年目の歴史を積み重ねてきた四ツ目饅頭をつくり続けていくためには、4代目の幸代さんの役割はきっと大きなものになるでしょう。「息子である5代目につなげていく」と語る幸代さんの目には、やわらかな中にも動かない覚悟の色が見えました。