
その他の「こよみのお話」へのナビゲーションエリア 飛ばしてページ内容へ
Vol.32井上 泰秋 さん
Vol.31宇土秀一郎 さん
Vol.30島田真平 さん
Vol.29ヤマチクの“持続可能な”竹の箸 さん
Vol.28美里町のぶらり歩き
Vol.27菊池川流域の文化にふれる
Vol.26熊本の城下町の防御網
Vol.25阿蘇市の農耕行事 御前迎えの儀
Vol.24神々の自然と祭事 阿蘇森羅万象と阿蘇神社
Vol.23芦北町田浦の郷土芸能 宮の後臼太鼓踊り
Vol.22荒尾市野原八幡宮 野原八幡宮風流
Vol.21天草市一町田八幡宮虫追い祭り
Vol.20国選択無形民俗文化財
八代市坂本町木々子地区
の七夕綱
Vol.19西橋銑一さん 淸美さん 後藤幸代 さん
Vol.18尾崎 吉秀 さん
Vol.17村上 健さん 井上昭光 さん
Vol.16盛髙経博さん 盛髙明子 さん
Vol.15古島 隆さん 古島隆一 さん
Vol.14松村勝子さん 倉橋恭加 さん
Vol.13川嶋富登喜さん 川田 富博 さん
Vol.12寺本美香 さん
Vol.11細川亜衣 さん
Vol.10坂元光香 さん
Vol.9上野友子 さん
Vol.8國武裕子 さん
Vol.7山村唯夫 さん
Vol.6水戸岡鋭治 さん
Vol.5茨木國夫 さん
Vol.4狩野琇鵬 さん
Vol.3小野泰輔 さん
Vol.2土山憲幸 さん
Vol.1小山薫堂 さん
芦北町田浦の宮之後(みやのうしろ)で踊り継がれている郷土芸能「宮の後臼太鼓踊り」。その起源や、踊りが集落に伝わった経緯、何のために踊られていたかはっきりとした資料は残っていないものの、現在でも小さな集落で親、子、そして孫世代にわたって踊られています。多くの民俗芸能が後継者不足を課題とする中、集落が一体となり、脈々と守り継がれているのはなぜか。その背景を少しでも感じとることができないかと、取材してきました。
【臼太鼓踊りとは】
太鼓踊りは西日本一帯に分布しているといわれていますが、まるで臼(うす)のような太鼓を横にして胸に抱き、鉦(かね)とともにリズムを取りながら踊る臼太鼓踊りは、宮崎県から熊本県の芦北、水俣、球磨地域にかけて伝わっています。民俗学的には先祖の霊を供養する念仏踊りが、華やかな衣装を着けた風流へと発展したものとされています。
毎年11月18日、芦北町田浦にある「田浦阿蘇神社」では、秋の例祭が行われています。昔は旧暦の9月15日や9月18日に行われるなど、その祭日はたびたび変わっていたようですが、米の収穫後に合わせた開催だったと考えられ、11月18日に落ち着いて久しいといわれています。昭和45(1970)年までは、祭日に奉納相撲が行われており、前日から各家庭で桟敷をかけていました。土俵場を中心に、まわりをぐるりといくつもの桟敷が取り囲む様は壮観で、参道には出店が並び、あふれるような人の数で賑わっていたようです。この奉納相撲は300年以上も伝統がありましたが、時代とともに例祭に訪れる人は少なくなり、神社境内が農村公園として改修され、奉納相撲は後を絶つことになりました。現在は、田浦阿蘇神社の例祭では、今回ご紹介する宮の後臼太鼓踊りをはじめ田浦に伝わる郷土芸能や、出し物、子ども御輿が奉納されています。以前のような県内外から大挙する見物客で賑わう光景は見られませんが、小さな子どもから年配の方まで、地域の方たちが集うとてもあたたかな祭りです。
芦北町田浦を訪れたのは、田浦阿蘇神社の例祭が行われる11月18日の前日、17日。例祭への奉納に合わせ、宮の後臼太鼓踊りの練習が4日前から始まっていると聞きつけ、練習風景の見学にうかがうことにしました。「陣羽織をまとい、隊列を組み、臼(うす)のような太鼓を横にして抱え、鉦(かね)の音に合わせて太鼓を叩きながら踊る」という、臼太鼓踊りについてなんとも乏しい知識しか持ち合わせておらず、まずはその踊りがどんなものか本番前に確認しておきたいと意気込み、17日の夜、宮之後集落の公民館、通称“青年小屋”をたずねました。その時すでに保存会の方たちは集まっており、仕事の都合で練習に参加できない人がいたもののほぼフルメンバー。保存会会長の宮本達也さんのかけ声とともに、鉦(かね)持ちがまん中の2列に、その外側に太鼓持ちが白い房をつけたバチを持って並びます。鉦持ちが6人、太鼓持ちが12人。踊るには少し窮屈そうな“青年小屋”の座敷にスッと整列した瞬間、今まで和やかな雰囲気だったのが一変しました。
カンココカンココ…。頭鉦(かしらがね)の合図とともに、踊りは始まりました。今回頭鉦のリーダーを務めるのは、若手の山野賢一さん。これまで太鼓を14年、平鉦(ひらがね)1年を経験してきた山野さんが、前任の頭鉦のリーダー本村浩二さんから引き継ぎ、「頭をやれ」と突然任命されたのが練習の初日だったとか。太鼓のリズム取り、踊りのタイミング、隊列の動きをリードする頭鉦はとても重要な役割。しかも任命からわずか1週間足らずで本番を迎えるわけです。練習とはいえ、かなり緊張した面持ちで臨んでいました。山野さんの合図とともに、一斉に隊列は動き出し、鉦の音が室内に響き渡ります。練習では太鼓持ちは、鉦に合わせてバチを振るだけ。ですが、足をあげ、手をかかげる動きは思った以上に激しく、踊りが進むにつれ隊列は円陣になり、どんどん盛り上がっていきます。最後には、もとの位置に整列をして終了。踊りを終えた面々の顔には運動の後のような汗がにじんでいます。練習中は軽装ですが、これが本番になると長襦袢に陣羽織、兜の重装備。どれだけの運動量になるのか、想像するだけで息があがりそうになります。
1、2回通しで練習をした後、「じゃあ、はじめるか」と、ササッとどこからともなくテーブルが出され、その上にはおつまみやお酒が手際良く並べられ、あっという間に宴席の準備が整いました。祭りの当日の打ち上げはもちろんのこと、練習後にも必ず宴会が催されるそうで、親子二代、親子孫三代で参加している方も珍しくありません。宴席では酒を酌み交わし、かつてバリバリの鉦持ち、太鼓持ちだった長老からはアドバイスやダメ出しが飛び、ところどころで反省会が開かれています。空になった自分のグラスを持ち、先輩に差し出しお酌をして、そして返杯を受ける。この地域流の飲み方“ダルヤミ”があちらこちらで繰り広げられています。練習時間よりも、飲み会の方がずいぶん長いのでは、と思ったものの、しばらくするとこの時間こそが地域の横のつながりを強め、郷土芸能を守り、次に繋いでいくためにはとても大切な時間なのではないかと思えてきました。「ガンガコガン…」と鉦と太鼓の音を言葉で表しながら、鉦のタイミング、踊りの型を確かめ合う様は、集落の芸能を口伝で継承してきた、遥か昔の光景がありありとイメージできた瞬間でした。
宮の後臼太鼓踊りの起源は定かではなく、ボンテ持ち(いわゆる指揮者のような存在)の衣装として残っている陣羽織が江戸時代後期に作られたもので、少なくとも200年から250年の歴史があると考えられています。臼太鼓踊りが球磨地方や芦北、水俣、宮崎県の南九州に分布していることから、球磨地方から山を越えて伝わったとも、芦北方面から伝わったとも言われています。由来についても諸説あり、戦勝祝いや武道奨励、雨乞い、田畑の害虫を追う農耕儀礼と様々です。例祭で奉納される踊りは“シンキヤ”と呼ばれるもので、鉦と太鼓、そして躍動的な踊りで構成されるもの。歌詞がついていたものや、雨乞い踊りもかつてはあったようですが、太平洋戦争中に踊りに必要な鉦を供出したことで一時中断したこともあり、その後しっかりと継承されたのは“シンキヤ”だけだったといいます。存続の危機があったものの、戦後は段ボールでとりあえずの衣装をつくるなど工夫し、70年前の田浦中学校の木造校舎落成式の時に復活を遂げました。衣装は長襦袢に鶴の文様を背に入れた陣羽織、そして頭には馬の毛をつけた兜。鉦の兜には鍬(くわ)があしらわれ、太鼓の兜には鹿の角。このいわれもはっきりしていません。指揮者にあたるボンテ持ち、旗持ち、鉦持ち、太鼓持ちで構成され、片足を上げて鉦や太鼓を叩き、くるりと回るなどの躍動的な動きが特徴で、とても勇壮な踊りです。唐人踊りの流れをくむのでは、という説もあります。宮の後臼太鼓踊りの披露は、年に一回、田浦阿蘇神社の例祭の日が本番。他にも民俗芸能大会などの舞台や、各種イベントに招待されることもあります。
さて、田浦阿蘇神社の例祭の当日、11月18日。寛永20(1643)年の神社再興を機にはじまったとされるこの例祭。みかんや米の豊作を感謝する地域のお祭りとして、子ども御輿、婦人会の出しもの、郷土芸能の奉納が行われます。祭りの雰囲気は、地域の人たちが思い思いの場所で見学し、時には出しものに合わせて歌い、踊り、とても和やか。そんな中、宮之後臼太鼓踊りが祭りの終盤に登場します。一拍子(いちびょうし)と呼ばれる拍子を鉦持ちと太鼓持ちが叩きながら舞台となる広場に入場し、まん中2列が鉦持ち、外側の2列が太鼓持ちの4列に整列。練習の時よりも更に上回る緊張感が走り、江戸時代の陣羽織をまとったボンテ持ちの合図とともに踊りははじまりました。厳かに、時に激しく、躍動的に。兜につけられた馬の毛が風に舞う様は美しく、鉦と太鼓の振動が胃の腑にまでじんじん伝わってきました。この日、わずか1歳10カ月の竹村優心くんがデビューし、最年少記録を塗り替えました。「臼太鼓が楽しくてしょうがない」と公言する太鼓持ち宇治原虹心(にこ)ちゃんは小学4年生。本番は風邪で参加できなかった虹心ちゃんの同級生、楠山杏樹ちゃんも今年から太鼓持ちにチャレンジ。この地で生まれ、育った者として血が騒ぐのでしょうか。これから先もずっと受け継がれていくに違いない郷土芸能の光がそこには見えました。